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「豊臣秀吉は指が6本もあった」など歴史の雑学

 

「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士は破産経験がある

クラーク博士とは、明治時代において、明治政府がアメリカ合衆国から招いたお雇い外国人です。北海道では、化学・植物学・動物学の教師を担当していました。また、北海道大学の創始者でもあります。主に、日本の北海道の開拓に貢献した人で知らています。また、当時の学生たちにキリスト教も広げようとして、キリスト教に入信した日本人学生もいたようです。

 

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そんなクラーク博士は、北海道に8か月滞在した後にアメリカに帰国します。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企てますが、資金難があったため失敗します。

 

しばらくしてから、知人と共に非合法的な鉱山会社をスタートさせます。かなり投機的な挑戦だったようです。スタートした時は巨額の利益を計上しましたが、やがて会社は破産します。その後、破産をめぐる裁判に訴えられて悩まさることになりました。さらに、大きな借金も背負うことにもなりました。

 

晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの日々の生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳で亡くなりました。彼は帰国した後も札幌での生活を忘れ去ることもなく、死の間際には「札幌で過ごした8ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしい時だった」と言い残したと言われています。

 

ちなみに、彼の名言である「少年よ大志を抱け」は、後年に作られた創作ではないかと疑われていたようですが、のちに彼が本当に発言したものであることが明らかになります。

 

全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老人(=私)のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になります。

 

 

ナポレオンの「吾輩の辞書に不可能はない」は日本人の創作

世界の歴史にまったく興味がない日本人でも、ナポレオンという人物は聞いたことがあると思います。ナポレオンは、フランスのコルシカ島出身の軍人であり、政治家でもありました。当時は、世界的にも有名なフランス革命が勃発し、フランス王政は崩壊。その後のフランスでは、市民が混乱していたのですが、ナポレオンがうまい具合にとりまとめて、最終的にはフランスの皇帝にまで出世します。

 

さらに、軍人としての才能があったナポレオンは、ヨーロッパの支配にも興味を持ち出し、当時は斬新だった戦法(三兵戦術)であっという間にヨーロッパのほぼ全土を支配します。

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日本ではあまり知られていませんが、ナポレオンは万能型の天才でもありました。軍人としての才能があったのはもちろんのこと、法学の才能もあったようで、「人は法の下に平等である」で有名なナポレオン法典を作り、これは今日の日本国憲法にも影響を与えています。さらに、当時の数学者と議論できるレベルで数学の知識も深かったようです。

 

そんな彼なら、吾輩の辞書に不可能はないという思想があってもおかしくはないと思いますが、この翻訳はちょっと間違っているようです。

 

彼が言った言葉とされる「Impossible n'est pas français」の正しい訳は、「不可能はフランス語ではない」あるいは「不可能はフランス的ではない」なのです。 この言葉に「辞書」を足したのは日本人の翻訳者です。確かに、フランス語のまま訳しても日本人にはピンとこないので、意訳をしたのだろうと思います。だから、当然ナポレオンが所持していた辞書には「不可能」という文字はちゃんとあったのです。

 

ちなみに、ナポレオンは天才でもありましたが、変わり者でもあったので、実は「天才と狂人は紙一重」という言い回しはナポレオンから来ています。ナポレオンはなかなか興味深い人物だとは思いますね。

 

 

江戸時代の参勤交代は、強制ではなく大名が好んでやっていた

参勤交代というのを学校の授業で聞いたことがありませんか? 参勤交代とは江戸時代で行われた制度の1つで、大名は妻子を人質として江戸幕府に預けると同時に、定期的に地方から江戸に向かって家臣と一緒に行列を作りながら旅をするのです。

 

このあまりにも労力がいる制度が作られた目的としては、地方の大名が参勤交代で資金不足となり、江戸幕府を倒す力をそぎ落とし、安定した長期政権を作るためにあります。

 

と、教科書では教えられましたが、実はこれは事実ではないようです。

 

 

 

では、参勤交代ができたきっかけはなんだったのでしょうか?

参勤交代の起源は実はさらにさかのぼって、鎌倉時代から始まります。大名が将軍に忠誠心をアピールするために始められたものです。だから、強制でもなんでもなく自主的にやるものでした。それが慣習的に江戸時代でも行われていたのです。

 

将軍徳川家光のときに、初めてこの慣習が制度として決められたのです。これが参勤交代制度だったのです。

 

江戸幕府は大名の資金を減らすどころか、参勤交代の際はもっと節約しなさいと命令したこともあるので、やはりただの儀式みたいなものだったのでしょう。

 

多くの日本人が勘違いしている参勤交代制度ですが、実はあの東京大学は大学入試で、問題を出したことがあるので紹介してみます。

 

参勤交代が大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果したこと、
反面、都市や交通が発展する一因となったことは、しばしば指摘されるところである。
しかしこれは参勤交代の制度がもたらした結果であって、
この制度が設けられた理由とは考えられない。
ではどうして幕府はこの制度を設けたのか。
戦国末期以来の政治や社会の動きを念頭において150字以内で説明せよ。

 

1983年の問題です。

 

解答例

主君のもとに出仕する参勤は武士社会に古くからあり、主君への忠誠を確保する人質も戦国期には広く見られた現象で、織豊政権下にも諸大名の参勤・人質はしばしば強制された。
体制の確立を果たした幕府は、御恩に対する奉公の一環として平和な次代にふさわしい形で諸大名の軍事力を動員するために参勤交代を制度化した。

 

豊臣秀吉は指が6本もあった

豊臣秀吉は、日本の歴史の中でも最も人気が高い歴史人物の一人です。農民という低い身分から織田信長の家臣として出世していき、最終的には天下統一の夢まで果たしていきます。その一方、日本の支配だけに満足せず、朝鮮と中国の支配にも興味を持ってしまい戦争を仕掛けるも、ボロボロに負けてしまいます。さらに、それを契機に部下の徳川家康に権力が奪われていきました。

 

豊臣秀吉は、その見かけが猿みたいに見えたため、信長からは「猿」と呼ばれていましたが、実際多くの資料でも秀吉は猿みたいだと書かれており、「猿かと思へば人、人かと思へば猿なり」とかなりひどい言い方で書かれた資料があります。また、身長も低かったようです。

 

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秀吉自身も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語っていたようです。

 

このように、秀吉は見かけが猿だったのは非常に有名ですが、実は秀吉の右手は指が6本もあったことはあまり知られていません。これは、「多指症」と呼ばれる先天的な形状異常であり、いわば豊臣秀吉は奇形児だったのです。

 

そのため、信長からは「六ツめ」というあだ名でも呼ばれていました。また、日本に訪れていた外国人のルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と述べています。

 

ただ、この多指症は通常は6本ある指のうち1本を切り落として、5本の指に戻すのですが、なぜか秀吉は指を切らなかったのです。その理由はよく分かっていません。背が低い・猿みたいな顔・指が6本となかなかインパクトのある容姿であった秀吉ですが、そんな人でも出世できるのですから、大切なのはやはり中身なような気がしてきますね。

 

リンカーンは霊界通信で幽霊から政治のアドバイスをされていた

リンカーンはアメリカの第16代大統領です。ケンタッキー州に生まれ農民であった両親のもとわずかな基礎教育のなかでも、自ら率先して学び、23歳で政治の世界に入ります。ところが選挙で落選し、次に郵便局長を経て弁護士になります。

 

 

 

その後二度目の出馬で当選を果たし、1860年に大統領として就任しました。南北戦争で最高司令官として指示を出し1862年に奴隷宣言、ゲティスバーグの戦いにて勝利を収めました。しかし、1864年に南軍の降伏後拳銃に打たれて亡くなりました。

 

リンカーンはどのような人物だったのでしょうか? リンカーンの人柄として同年代に生きたアンドリューカーネギーはこう述べています。
「誰にでも、なんとなく親切で、思いやりのある言葉をかけ、事務所の給仕にさえも、同じようにふるまった。彼の他人に対する態度には、差別がなかった。」

 

この言葉からもわかるように言動の一つ一つにリンカーンの人柄が現れており、召使に対しても友達のように振る舞う親しみやすさや柔らかい人柄を賞賛する人が多いのです。リンカーンはその人柄も含め偉大案人物であったことがわかりますね。

 

ところが、実はリンカーンは霊界通信が好きな大統領でもあったのです。その霊界通信では、600万人もいた黒人奴隷の解放をなるべく急いだほうがいいというアドバイスをされ、リンカーンはそれを実行に移します。

 

また、南北戦争で勝つためのアドバイスとして、リンカーン自らが前線に行けば兵士たちの士気が高まると言われたのです。当然、リンカーンはそれを実行したのです。

 

幽霊を信じるか信じないかは人それぞれですが、リンカーンのこのエピソードは大変興味深いものだと思いますね。

 

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初詣の起源は明治18年とかなり最近

年が明けると、家族みんなでお参りに出かけるのが日本人にとっての風習となっていますね。この一年間の始まりのお参りを初詣といいます。神社にお参りにいき、一年間の願い事や家内安全を祈願し、おみくじを購入したり、お守りなどを購入するのが初詣の楽しさですよね。

 

また、神社の中には初詣となると沢山の出店がでて新年最初のお祭りの様に活気あふれますよね。お寺にお参りの際は、仏様に感謝し今年の目標を宣言し、除夜の鐘を叩き、一年間のスタートを行います。お寺に除夜の鐘を叩くと年越しそばを出してくれるところも多く、一年の始まりの初詣となります。

 

 

 

さて、この初詣の始まりですが、実はすごく昔からある伝統的な文化や風習ではなく、
なんと明治18年から始まっているんですね。実際には、すごく昔までさかのぼるのだと思っていたのですが、まだまだ、最近の明治時代からなんですね。

それでは、初詣はなぜ明治18年から始まったのかを見ていきたいと思います。

 

実はこの初詣は、日本に始めて国鉄が鉄道を開通させ、汽車を走らせたことから始まったのです。この汽車が走ったことで当時の国民から当然、汽車に乗るのが夢であり、必ず乗りたいと思う方々で一杯だったのです。

 

そして、汽車に乗った国民の皆さんが、道中にある川崎大師にせっかくだからお参りに行こうということになり、毎年毎年の積み重ねで川崎大師の参拝客が多くなり、
その動きから全国的に広がり、現在の初詣という形で、一年の初めてのお参りが全国的な風習として現在に至るのです。

 

すごく昔からある文化や伝統ではなく、実は商業の動きから出来上がった文化だったんですね。汽車が走るということで日本の歴史がまた一つできたことになりますね。

 

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ハーバード大学はアメリカ合衆国より歴史が長い

世界に数々ある大学の中でも皆さんが一度は耳にしたことのある名門大学といえば、アメリカのハーバード大学でしょう。このハーバード大学が、なぜ有名なのか、世界中の学生が憧れるのかというとやはり世界でもトップレベルの教育水準であることは間違いないでしょう。

 

そんな世界の学生が憧れるハーバード大学からは、なんと大統領が7名輩出されています。また、有名なビル・ゲイツやマーク・ザッカ‐バーグを始め数々の有名経営者や俳優、映画監督なのが輩出されているのです。

 

 

 

日本人では、三木谷浩史や新波剛史、驚くことに皇太子妃雅子様もハーバード大学出身なのです。更に驚くことにハーバード大学から48名のノーベル賞受賞者が輩出されています。

 

そんな、アメリカにある世界でも最高水準にあるハーバード大学ですが、実は、アメリカ合衆国よりも歴史が長いことを皆さん知っていたでしょうか?

 

アメリカという国ができる100年以上前から存在していたと言われています。どういうことかというとアメリカはもともとイギリスの植民地でありハーバード大学が設立されたのは、1636年。

 

この1636年はまだ、アメリカ合衆国でなくイギリスの植民地なのです。ハーバード大学ができてから140年後にアメリカは独立国家となったので、アメリカ合衆国よりもハーバード大学の方が歴史が長いことになるのです。

 

だから教育の最高峰になっているとは言い難いのですが、歴史と共にしっかりと成長し、数々の有名人を育ててきた分、このハーバード大学がアメリカを創造し、世界を創造してきたと言っても過言ではないですね。

 

これからも、世界で活躍する沢山の経営者や発明家などをどんどん輩出し世界がより平和で安心な生活を行っていけるようなそんな方々を育てていく世界で一番の大学である事が期待できますね。

 

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タイタニック号に乗って生き残った日本人がいた

大ヒット映画『タイタニック』のモチーフは、1912年の豪華客船タイタニック号の沈没事件であることは有名です。
当時の最新鋭の技術を駆使して造船され、船内は高級ホテル並みの施設があり、全長268m、最大幅28.2m、総トン数46,328トンという巨大な船舶でした。
その巨大なサイズから「絶対に沈まない船」とも言われた夢の豪華客船として航海に出発しますが、氷山に激突し沈没してしまい、乗客と乗員の3分の1が犠牲となる悲しい出来事に遭遇してしまいます。

 

 


1912年4月10日にイギリスのサウザンプトンから、アメリカ合衆国・ニューヨークへと向かった豪華客船タイタニック号ですが、1912年4月14日の深夜に北大西洋のカナダの東端にあるニューファンドランド島沖を航行していたところ、氷山に衝突して翌日未明に沈没してしまいます。


これは、タイタニック号の初航海4日目の出来事でした。
タイタニック号が積んでいた救命ボートの数は、最大収容人数の30%の人数分しか用意されていなかったといいます。

 

しかも乗務員は、沈没の事態に備えての訓練を受けておらず、救命ボートに何人乗れるか分からないまま、女性と子どもを優先にという指示のまま、乗船余裕がある救命ボートを海面に下ろしてしまったということもあったようです。

 

このような深夜の洋上で突然起きた海難事故の中、命の助かった日本人の方がいました。
日本人として、ただ一人タイタニック号に乗船しこの海難事故に遭いながらも、一命を取りとめたのは、当時の鉄道局の官僚であった細野正文氏という方です。

 

正文氏は、日本の音楽シーンを牽引してきたミュージシャン細野晴臣氏の祖父の方です。
当時、細野氏は欧米の鉄道を視察するためにヨーロッパでの研究を終え、アメリカに向かうためにタイタニック号に乗船して事故に遭われたのでした。

 

生きて帰国した細野氏に対して、快く思わない人々が「他人を押しのけて助かった」などという事実とは違う誹謗中傷を受け、事故の翌年には勤め先の鉄道院は細野氏を免職にしてしまいます。
当時の新聞は、日本男児なら生き残るべきではなかったという論調で細野氏を非難したそうです。
それでも細野氏は黙して語らず、1939年に名誉回復の機会もないまま、亡くなられてしまいます。

 

細野氏の手記がその後見つかり、そこには婦女子を押しのけて生き残ったのではなく、偶然にも目の前のボートからあと一人乗れると言われ、乗り込んだ結果生き残ったものであることが書かれているそうです。


映画『タイタニック』が公開された1997年に、細野氏の手記がタイタニック号の遺品を管理するRMS財団の目にとまり、85年の歳月を経て細野正文氏の名誉は回復されました。